あの結晶の春を君とまたもう一度

第4節 紅色の君

 

「キャーーーー‼‼」

ガっシャーーーーンッッ!という爆音が聞こえた直後、女の人が叫ぶ声がする。

「誰か、誰か、助けて‼どうか彼を……!…ああ、そうだ、救急車。救急車を呼んでちょうだい!早く!」

地面にぐったりと横たわる青年。その青年の頭から溢れんばかりの血が流れ出るのを、女の人は小さなハンカチで必死に押さえている。僕はその光景に息をするのを忘れてしまっていた。

 

ああ、僕は――僕は、自分勝手の行動で誰かの運命を変えてしまったんだ。

 

どうして、どうして、どうして――‼何でこんなことに⁉事故が起こるのはあの公園の自販機だったんだ。でもそこでは何も起こっていないということか?それともそこでも事故は起きているのだろうか?僕はその瞬間、背中から何かが這いのぼてくるような寒気と気持ち悪さがあった。だとしたら、もしそうだとしたら――。トラックの運転手の潰れた上半身、地面に横たわってビクともしなかった雪希ちゃん。きっと今、そこでも事故が起こっているのなら、きっとそこには誰もいない。行かなきゃ、僕が……!

「雪希ちゃん、僕、行かなきゃ――!」

そう言って、僕は全力で走り出した。その後ろを雪希ちゃんの呼ぶ声がする。ごめん、雪希ちゃん。こうなったのは全部僕の所為なんだ。全部全部、僕の所為なんだ。必死に必死に走った。僕が突っ立っている間、死ぬほどの痛みに耐えて地面に転がっている若い女に人がいた。

「ああ、ああああああーーーーーー!!!!」

絶望にも似た僕の絶頂が小さな公園に木霊する。僕は女の人に駆け寄り、身体を揺すった。女の人からの反応はなかった。息も、……していなかった。

「あああああああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっっ!!!」

ただ、誤ることしかできない。恐怖に似た感情が僕をどんどん浸食していく。身体が地面に縛り付けられる。僕は、僕は。――ただの人殺しだ。

「優くんっ!!」

そんな優しい声で、僕の名前を呼ばないで。人殺しの僕を、何の穢れもない瞳で見つめないで。泣きそうになるから、自分を呪ってしまいたいほどに自分が嫌だから、嫌いだから。

「雪希……ちゃ…ん」

かろうじて発した僕の声は、情けないほどに掠れていた。

「優くん、どうしたのっ!――た、大変!救急車、救急車呼ばなきゃだよ!!」

そう言って雪希ちゃんはすぐに『119番』を鳴らし、事故のことを正確に伝えていた。謝ることしか頭になかった僕は、雪希ちゃんの行動に呆気にとられる。ああ、自分が不甲斐なくて仕方がない。僕は自分で自分を自嘲する、見下する。

「ゆ、雪希ちゃ……っ!どうしよう、ねえ。どうしたらいいのっ⁉どうしたら僕は――!」

「優くん‼落ち着いて!大丈夫だから、ね?もうすぐ救急車も来るよ!運転手さんも女の人もきっと助けてくれるからっ!」

恐怖に震える僕の肩を、雪希ちゃんが優しく優しく包み込むようにして抱きしめてくれる。僕は思わず、雪希ちゃんの背中に手を回す。強く強く、しがみ付くようにして。でもその小さな背中が僕以上に震えていることに気が付いた。

「雪希、……ちゃん。だい、丈……夫?」

雪希ちゃんは首を縦に振った。

「大丈夫!でも今は優くんを守ってあげなきゃ……!」

無理矢理出されたような、不安を押し潰したよな、妙に明るすぎる声。いつも、そうだったね。僕は小さいころから泣き虫だった。いじめられて、草陰に隠れて孤独を押し潰すように泣いていた僕を、雪希ちゃんはいつも簡単に見つけてくれた。そして僕の涙が止まるまで、大丈夫だよ。雪希がいるよ、と言って背中を優しく擦ってくれていた。雪希ちゃんは春の光のような温かな存在で、僕のヒーローだった。それを言うと雪希ちゃんは可笑しそうにケラケラと笑っていた。

『でもヒーロー男の子がなるものでしょ?雪希が優くんのヒーローだったら女の子がヒーローになっちゃうよ!でも優くんは私の泣き虫ヒーローだねっ!』そう言って笑った君に着いていこうと思った瞬間だったんだよ。雪希ちゃんを守れる泣き虫ヒーローなんかじゃない、強くて勇敢なヒーローになろうと思った瞬間だったんだよ。

「雪希ちゃん、ありがとう。……雪希ちゃんはやっぱり僕のヒーローだ」

そう言って笑った僕の笑顔は、きっと歪んでいただろう。君がいてくれてよかった、出来ることならずっと君の隣で笑っていたい。でも、それは叶わない願いなんだろうか。今日で分かった事がある。公園から離れ、別の場所へ行った。でもそこでも事故が起きた。僕があの時、雪希ちゃんを止めていなかったらきっと死ぬのは雪希ちゃんだったはずだ。

神様は僕に何をさせようとしているの?過去に戻れたとしても、そこでも容赦なく雪希ちゃんを傷つけようとする。そんなことに意味はあるんだろうか。

「私のヒーローは優くんだよ。昔から……」

「……え」

雪希ちゃんの発言に思わず言葉を失った。

「ほら、今だって私のこと抱きしめてくれてる。ほら、震え。止まってるでしょ?」

優くんのおかげだよ、と瞳が訴えているような気がした。遠くから救急車のサイレンの鳴る音が聞こえてくる。雪希ちゃん、君の隣にいると信じれないくらい心が落ち着くんだ。どうにでもなるやって思えるんだ。だから君はずっとずっと僕の光でいてね。

 

20××年 2月15日

『昨日、2か所の自動販売機付近で事故が起こり、4人が極度の重症を負いました。そのうちの三人、23歳の照山景子さんと26歳の仲野来夢さん、そして車を運転していた30代後半と思われる男性は重傷を負いましたが、命に別状はないということです。

ですが、桜山公園で起きた飲酒運転をしていた56歳の男性は死亡が確認されました――。』

これでニュースを終わります。どこか機械的な感情のこもっていない報道が終わり、僕はストンと腰をソファに下ろした。一人、死んだ。その事実が一番ましだった気がした。本当はこの日、ニュースでは二人の死亡者が出たと言っていた。でもそれがなんだ。結局同じ日を繰り返せても、運命が変わらずに死んでいったトラックの運転手。飲酒運転という悪いことをしたおじさんだけど、その人の周りの人はきっと今、つらいだろう。だから僕もその人の死を忘れないように生きていく。それがせめてもの何もできなかった僕からの償いだと思って受け取ってほしい。

ピーンポーン……

家のインターホンが鳴った。僕は階段を下りて、玄関へと向かう。そしてガチャリと扉を開けた瞬間、何かが僕に抱き着いてきた。突然のことに驚き、固まってしまった。

「うう、ぐすっ……。優くーーん!良かった、良かったよ……」

その“何か”の正体が分かってしまった瞬間、僕の頬は一瞬にして赤く染まった。雪希ちゃんだ。なぜ分からないけれど、僕の腕の中で泣いている。僕は戸惑いながらも雪希ちゃんの頭を優しく不器用に撫でる。

「ゆ、雪希……ちゃん?大丈夫…?」

いまだに何が起こっているのかあまり理解していないけれど、とりあえず言う。

「事故、一人死んじゃったっ……!で、でも……ぐすっ、さ、三人は助かったって…!」

そう悲しそうに、でも嬉しそうに伝えてくれる君が愛しい。

「うん、知ってる…」

「あ、あれ…?ゆ、優くん。も、もう大丈夫……?」

不思議そうに尋ねてくる君に、僕は満面の微笑みを浮かべられていただろう。

君が何度死のうと、僕は時を戻して君を助ける。離れていこうとしても、僕が掴んで離さない。

 

二人で過ごした2月15日は、僕にとって幸せなものになった。

――窓から差し込んでくる淡いけれども眩しい光が、僕たちを包み込むようにして照らしてくれていた……。